グイノ神父の説教
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聖木曜日
聖土曜日
復活の主日
復活節第2主日
復活節第3主日
復活節第4主日
復活節第5主日
復活節第6主日
主の昇天の祭日
聖霊降臨の祭日
キリストの聖体の祭日
聖週間
聖木曜日 2008年3月20日
出エジプト12章1−14節 1コリント11章23−26節 ヨハネ13章1−15節
この聖週間の間に私達に何が求められるのでしょうか? 今聞いた福音書に答えが暗示されているようです。 「ところで、主であり、師である私があなた方の足を洗ったのだから、あなた方も互いに足を洗いあわなければならない」のであって、他のいい方をすれば、「私があなたがたを愛したように、あなた方も互いに愛し合いなさい」ということです。 しかしむしろ、イエスがなさったことを繰り返すよりも、先ず、私達は彼がなさった事を理解するように求められています。 私達は二つの事を理解しなければなりません。 第一に彼の愛を信じること、次に私達を救う為に彼が望むままに行なわれるように承諾することです。 その時、私達はイエスが私達をいかに愛されているかを、驚きをもって再発見する事でしょう・・・
ヨハネはイエスの愛について、「彼に属している者達のため」と、話しています。 日本語では間違って「弟子たちのため」と訳されていますが、これは「彼に属している者達のため」ということです。 「彼に属しているもの」ということは、先ず、ヨハネが自分の福音の初めにはっきりと説明しているように、彼を受け入れなかった者すべてです。 1章11節で、「彼は自分の民(民ではなく彼のもの)のところへ来たが、彼のものは彼を受け入れなかった」と述べられています。 これらはイエスが共に最後の食事を分かち合っておられる弟子たちの事でもあります。 ご自分の友の足を洗いながら、イエスは兄弟愛的な奉仕という形のもとに、友だちであろうと敵であろうと、信徒であろうと無神論者であろうと、すべての人に対するご自分の愛を示されます。 キリストは彼らへの奉仕を行なわれるのみでなく、同じような相互の奉仕に使徒たちを招かれます。 「私があなた方にしたとおりに、あなたがたもするようにと、模範を示したのである」と書かれています。
これはペトロの理解が及ばなかった事です。 彼はイエスの行いに躓きました。 彼はイエスがこのように身を低められるのを拒否しました。 なぜなら彼は、愛は奉仕であり、自分自身をすべて与えることだと分からなかったからです。 足を洗う事によって、この奉仕を具体化する為に、イエスはご自分の上着を脱ぎ、腰に奉仕のエプロンを付けられます。 最後にご自分の上着を再び取り上げられますが、人が簡単に忘れてしまう大切な事は、イエスが奉仕のエプロンをはずされたとは、どこでも語っていない事です。 上着を脱がれ、それを再び付けられたことは、次の言葉と一致します。 それは「私は命を再び受けるために、捨てる」(ヨ10章17節)という言葉です。 しかし同時に、復活されたイエスはずっと奉仕する人だから、奉仕のエプロンをはずしませんでした。 彼がそれを付けておきたいと望まれたのは、既に彼が何回も次のように言った事を私達が思い出すためです。 つまりそれは「主人が帰ってきた時、目を覚ましているのを見られる僕は幸いだ。 はっきり言っておくが、主人は帯を締めて、そばに来て給仕してくれる。」(ルカ12章37節)と言う言葉ですが、腰にエプロンを付けて奉仕する様子が思い浮かんできます。
キリストの死と復活の時から、私達はミサで、お互いに、キリストのうちに一致します。 それは私達にこの奉仕の精神と無償で愛する望みを与えるためです。 「私の記念としてこれを行ないなさい」とイエスは言われました。 大抵の人にとって「記念として行なう」は過去の人や出来事を思い出す事に深く関係があります。 記憶は私達を現在から過去へ移らせます。 しかし聖書的文化と考えの中では、記念する事は全く反対の事です。 それは過去の出来事を現在の物事として受け取ることです。 今、実現されている出来事として受けるのです。 ミサの祭儀は過去の繰り返しではありません。 イエスが他の人達の為に、他の場所で、昔おこなわれたことを、今、ここで、私達の為に、行う+ことが可能になります。 すべての事を私達に思い出させる聖霊の飛躍によって、宣言された彼の言葉、晩餐、私達に奉仕された彼の愛によって、イエスは私たちを変容する為にそこに現存されます。 イエスの記念を行い、ミサを執り行う事は、後ろを眺め、過去に戻る事ではなく、前を眺め、イエスと共に未来へ向かって、信頼のうちに歩む事です。 ですから私達はミサの度毎に、信仰の神秘と宣言するのです。 「主の死を思い、復活を讃えよう。 主が来られるまで」 アーメン
聖土曜日 2008年3月22日
ロ−マの信徒への手紙 6章3−11節 マタイ 28章1−10節
復活の徹夜祭は実に私たちの信仰の源泉に戻る夜です。 鮭は自分の生まれた川にむかって海の沖から上って来て、そこから新しい命を生み出します。 このように私達も主と共に新しい命の創造者となるために、私達の洗礼と信仰の源泉に帰ります。
具体的に言えば、象徴的に洗礼と信仰の源泉に戻るのですが、私達は人類の起源、神の民の起源、私達のキリスト教的信仰の起源を思い出しながらそれを行います。 私達の信仰を誕生させ、成長させたこれらの出来事をすべて思い起こすことは、実りのないノスタルジーではありません。 それは私達のためだけではなく、皆が生きている世界にとって、新しい飛躍となり、希望をもたらすものとなります。
「キリストはアルファでありオメガである」(AとW)と復活のロウソクの上に書きます。 「キリストはすべてのものの初めであり終わりである」という宣言で私達は、ナザレトのイエスの死と復活のみでなく、人類と宇宙の全歴史を、このようにたった一つの出来事に凝縮させます。 「週の初めの日の明け方に」とマタイは書いていますが、それはマタイが書いた人類の新しいページがこれであると示すためです。 これは新しい始まり、新しい創造です。
復活の証拠を望む人は、福音では問題のあった女しか提供されません。 そのうえに、イエスの受難の時に勇気がないことを示している幾人かの人もありますが、この人達は先づ最初に主の復活を疑った人達です。 復活は誕生である事をすべてが指し示しています。 「『週の初めの日』、朝早く、『まだ暗いうちに』」(創世紀第1章1節参照)と書かれています。 墓は骨を納めますが、ここでは新しい命の源泉です。 墓は開かれましたが、空です。 墓は命を与えました。 ペトロとヨハネは、遺体を包む亜麻布と遺体の顔の上に置いていた布しか、見つけません。 イエスはすでに死の古くてぼろぼろのつまらない服は捨てていました。
復活は全宇宙の勝利です。 死と悪に、あらゆる形で、ある意味で命を与えた罪に対する勝利です。 死に対する全面的な勝利は、空の墓に転がした石の上に座っている天使によって示され、また、イエスの遺体を置いた場所の前と後ろに座った二人の天使で表わされます。
今晩と明日、婦人達と足並みを揃えてその模範に従いましょう。 「婦人達は、恐れながらも大いに喜び、急いで墓を去り、弟子たちに知らせるために走って」行きました。 復活の喜びに満たされて、東方教会の兄弟達が言うように、彼女達は「使徒達の使徒」となります。 彼女達は素晴しい知らせをもって走ります。 キリストは復活された!と。 私達も周囲にこの良い知らせを宣言しに走りましょう。 生きるキリストに絶えず戻りましょう。 そこは、私達の小さい共同体のなかで、彼は私達と出会いの約束をしています。 イエスがどれ程私達を愛しているかを示されるのはそこでです。 特に彼が自分の現存と聖霊の賜物で私達を満たす場所はここです。 ですから、おん子イエスの復活を通して私達に与えられる終わりのない命を、神に感謝しながら、有難うと言いましょう。 アーメン。
復活節
復活の主日 2008年3月23日 キリストは本当に復活された!
使徒言行録10章34−43節 1コリントの神とへの手紙5章6−8節 ヨハネ20章1−9節
福音の中で、復活の証拠として記述されているのは、問題のあった女しかありません。 さらに記されているのはイエスの受難の時、イエスを捨てて逃げ去った勇気のない幾人かの人達で、この人達は先づ最初に復活を疑った人達です。 すべてが復活は誕生であると示しています。 「『週の初めの日』、朝早く、『まだ暗いうちに』(創世記1−1参照)」と述べられています。 墓は骨を納めますが、新しい命の源泉です。 墓は開かれましたが、空です。 墓は命を与えました。 ペトロとヨハネは遺体を包んだ亜麻布と顔の上においた布しか見出しません。 イエスは既に死の衣服を捨て去りました。
イエスを否認したペトロと十字架の足許に忠実に留まるヨハネに、マグダレナ・マリアは良い知らせを伝えます。 事実、マグダレナ・マリアは、リーダーであるペトロとイエスが愛された使徒が表している教会に向かっていったわけです。 この日から、教会は頭であるキリストに向かう正しい道を示す為に、私達の日常生活に姿を現します。 先に墓に着いたヨハネは、尊敬を示してペトロを自分より前に墓に通します。 ペトロはそこで何も見えないことを認めますが、ヨハネは見て、信じます。 イエスの復活に対する信仰は、証拠や手で触れる事の出来る物によって証すると言う事ではありません。 ペトロはいくら自分の目の前に、はっきりと開かれた墓や死者の亜麻布があっても、理解しようと頭で求めるので、見えるだけで見ません。 ヨハネは見て、信じます。 彼の信仰は頭で考える事ではなくて、心の中のことで、彼の人生の中にあるからです。
愛していない人に花束は何の意味もありません。 ゴミ箱に捨てた一切れのパンは、空服でない満腹した人に意味がありません。 互いに愛し合っている人の心にある愛には何も見えません。 彼らだけが繊細で壊れやすい物事の中に、自分達の愛の痕跡を見ることが出来ます。 そして、もし偶然、私達がこれらの印(例えば、人前で抱き合うか、手をつないで歩く二人の恋人たち)を見分けても、この印は彼らが持っている愛を絶対に私達に伝えることができません。 同様に、どんな印も信仰を与えることは出来ません。
イエスに対する愛情の故に、ヨハネはペトロよりもっと速く走りました。 十字架の足許にとどまる忠実な愛の故に、ヨハネは最初に信じました。 イエスが愛した使徒は、心の目で見て、信じました。 もし、空の墓と墓に残された布が、より多く愛した人によってしか理解されないのであれば、秘蹟についても同様のことが言えるでしょう。 私達に豊かに神の命を伝える、これらの秘蹟という控えめな印は、信頼と愛の内にしか受け入れる事ができませんが、また神のみ言葉の黙想と聖書のうちに受け取る事ができます。
確かに、空の墓と畳まれた布は、イエスが言われた神秘的な言葉を思い出す時にしか、ヨハネにとって印となりません。 聖霊に照らされ、突然、復活という言葉の意味するものを理解します。 このようにイエスの言葉はヨハネが見たものを彼に信じさせ、理解させる事が出来ます。 私達は神のみ言葉への絶え間ない愛の黙想で照らす事でしか、人生の出来事を奥深く理解しません。 真理を見させるのは愛です。 神が私達に差し出す救いを聖書のなかに発見させるのは愛です。 神のみ言葉に対する私達の愛の大きさは、私達にとって、イエス・キリストの神秘への交わりと一致のはかりとなります。 アーメン
復活節第2主日(神のいつくしみの主日)2011-5-2A年
使徒言行録2,42-47 1ペトロの手紙1,3-9 ヨハネに20,19-31
ヨハネは聖書の中で見ること、信じるという言葉をずっと繰り返す。 決定的なしるしを要求する信仰を警戒するように教えている。 もし、神を信じるために信仰を願うとしたら、神を信じるために誘惑することです。 真の信仰は目によってではなく、聞くことによって与えられる。 神は絶えずご自分のみ言葉により頼むことを誘います。 例えばモーセは民のために奇跡を行いましたが、民は神を理解せずに、悪い道を歩んだ。 キリストも様々の奇跡を行いましたが、人々は不平や不満を言った。 ある町の百人隊長はイエスに「一つの言葉を言ってください。 そうすれば私の僕は癒されます」と言った。 イエスは「この人のような信仰は今までに見たことがない」と言われた。 これは聞いた言葉を自分のものとしたために信仰が強くなったのです。 神はいつも「聞きなさい」と言っておられる。 『今日神の言葉を聞くなら神に心を閉じてはならない』と司祭は詩編の言葉で祈ります。
真の信仰は他人の言葉を自分のものとすることです。 この他人は、神であろうと、預言者であろうと、キリストであろうと、キリストの証人であろうと「見ないで信じる人は幸い」。 今日こそ私たちの信仰が、聖書の証しとイエズスの復活の証人の証しによって、生まれ養われる。 様々の証言に対する私たちの示す関係によって、全てを新たにする聖霊の力が与えられている。 そこで、聖トマスと共に「私の主、私の神」と言えるでしょう。 ペトロが教えているように。 私たちの信仰とはペトロの手紙Tの1章8節から9節「あなたがたは、キリストを見たことがないのに愛し、今見なくても信じており、言葉では言い尽くせないすばらしい喜びに満ちあふれています。 それは、あなたがたが信仰の実りとして魂の救いを受けているからです。」
見ずにキリストを愛すること。 私たちの喜びは偉大である、なぜならヨハネの証しによると、私たちそれぞれはキリストのようになって、ありのままにキリストを見ることができるからです。 ヨハネの手紙Tの3章2節「愛する者たち、わたしたちは、今既に神の子ですが、自分がどのようになるかは、まだ示されていません。 しかし、御子が現れるとき、御子に似た者となるということを知っています。 なぜなら、そのとき御子をありのままに見るからです。」 この幸せな時を待ちながら、教会は“見ずに信じるという生き方”を証しする。 確かに、トマスはキリストの体にあった傷を見ましたが、彼は目に見えないものの神の現存を宣言します。
今日の福音の中に私たちは、見るべき聞くべきは、まず、キリストが与える平和、罪の赦しと聖霊の賜物です。 このような理由で今日列福されるヨハネ・パウロU世は、この日曜日を「神のいつくしみの主日」と呼ぶように決めました。 最も必要な時、自分を見捨て、離れ離れになった弟子たちに平和と罪の赦しを復活したキリストを信じた人に与えることです。私たちはミサ祭儀の時、それを行っているのです。
ヨハネは十字架と復活と聖霊の賜物を分けない(分裂させない)ように勧めているのです。 キリストの傷から平和が私たちに与えられる、このキリストは生きている、生きて自分を仰ぎ見る人に聖霊を与える。 今日、キリストが私たちの間にいる理由は、私たちは彼の受難と死と復活を記念するからです。 ここに毎日曜日集る必要性の証拠です。 トマスが弟子たちと一緒に居なかったから、キリストと出会わなかった。しかし8日後、彼らと共に一致して、教えられない信仰を受け、その信仰は殉教まで導くでしょう。
毎日曜日、兄弟姉妹の皆さん。私たちは自分の目でイエスズの体と血を見、そして、私たちの信仰の神秘を宣言します。 トマスのように私たちは、「キリストは生きている。 彼は、私の主、私の神であり、そして聖霊が溢れるほど与えられた」ことを宣言します。 「私たちの共同体を訪れる人々にも、また全世界中で十字架と復活の思いで生きるキリストを歓迎する人、全てに、聖霊が与えられていることを確信を持って教えている」と、ヨハネは証しします。 復活祭の七週間のうちに「アレルヤ」を歌えましょう! しかし、この「アレルヤ」がキリストの血によって真っ赤に染めていること絶対に忘れないようにしましょう。 アーメン。
復活後第3主日 2008年4月6日
使徒言行録2,14;22-23 1ペトロ1,17-21 ルカ24、13-35
イエスは御自分をトマスに見せられるのに、1週間待たれました。 何故でしょう? キリストはキリスト者の生活に基本的なリズムを与えようと来られました。 その時から、信徒は毎日曜日、イエスを偲んで、称賛する為に、またこの日に彼の復活が啓示されたと言う意味をはっきり伝える為に みな集まります。 古代には、日曜日は休息の日ではなく、キリスト者にとっても、その日に集まる為に、労働の時間を差し引かなければなりませんでした。 世間の流れに逆らって彼らは自分の信仰を証明しなければなりませんでした。 彼らにとって日曜日は週の8日目だったのです。
今日、エマウスの位置であると思われる場所が4つあると考えられます。 この曖昧さは、二人のうち一人の弟子の名が知られていないことと同様に、はっきりしています。 エマウスとは、どこででもイエスだと知らないで一緒に歩いていた人がいるところです。 エマウスとは、どこででも生きているキリストとの出会いが起きる処です。 しかしこの出会いはどのようにして起こるのでしょうか? 福音は答えています。 聖書の中に神の言葉を聴くこと、パンを分かち合う事、聖体を拝領する事です。
聖書と親しむ事が、私達の人生でイエスを知る為の第一の方法である事は確実です。 エマウスの弟子たちはイエスについて全部知っていました;彼の出自、彼の使命、空の墓の発見など・・・彼らは天使がイエスは生きていると言った事さえ知っていました。 彼らはイエスと一緒に歩きました、が、イエスを認識できませんでした。 イエスを認めて彼らの心が燃えるようになるまで、一体、何が彼らに欠けていたのでしょうか? 神のみ言葉の観想から来る信仰です。 「あゝ、物分りが悪く、心が鈍く、信じない者たち!」とイエスは神のみ言葉の光のうちに、御自分の人生と受難の出来事について、彼らに説明されました。 神のみ言葉は、読まれ、聴かれ、分かち合われ、、知恵を照らす食べ物として、吸収されて、信仰を強め、希望を与えます。 もし私達が聖書のテキストを観想する時間を取るなら、エマウスの弟子たちの体験を再体験できます。 その時私達は、私達の人生の出来事が分るだけではなく、私達の信仰が強められて、イエスについてもっと深く知り、もっと親しくなる事が出来るでしょう。
しかしながら、それで充分だと言うことではありません。 イエスの教えは二人の弟子に燃える心を与えましたが、彼らの目はまだイエスを見ていませんでした。 彼らにはまだ飛躍しなければならない基本的な一歩が残っていました; 彼らの心を開き、イエスに「主よ、私達と一緒に残って下さい!」と言うことです。 彼らは自分たちとの もっと、もっと深い親しさに イエスを招かなければなりません。 それこそミサの神秘であり、パンを裂く神秘です! 私達は先ず、イエスを招待して、それから拝領によってキリストから彼の体と血とを受け、生きているイエスと出会うことが出来るのです。 自分の信仰を養いたいと望む人に、み言葉の典礼はイエスを受け入れたいと望む心を与えます。 み言葉の典礼は いつも信徒を 食卓の典礼へと導きます。 それはイエスをそこへ誘い、イエスの取り除かれたみ顔をはっきりと、仰ぎ見るためです。ミサ毎に私達は イエスが生きて、そこに 私たちの真ん中に、居られると 確信します。
日々の朗読は イエスがエマウスの弟子のように私達を伴い、私たちの心を燃え立たせます。 しかし私たちが 主の現存を感じ、主を見るようになるのは、真理と、自由にのうちに、イエスが本当に望まれたい、受け入れられたい と望まれるからです。 それはパンを裂くことで 特に意味づけられています。 これは根本的な断絶です。 (つまり、今までキリストを望み、キリストを迎えようと誘っていました。 いわばこれは私たちの日常性です。 しかし今は、パンが裂かれることで、永遠の流れが私達に入るようになります。 神の命が私たちを受け入れようとし、神が私たちを迎えようとすると言う反対の状態になります。 今までとは逆です。 神が私たちを迎え、私たちに食べさせます。)
パンを裂く瞬間から、私達の日常性が断ち切られ、神の命が私達のうちに入られる事を望まなければなりません。 なぜなら、イエスは私達とは全く違う方で、人は彼を?む事は出来ません。 私達を掴まれるのは彼で、私たちは彼のうちに変えられます。 これは私たちを御父に導くためです。み言葉を聴くこと、イエスに近づく事、これは私達固有の役割りですが、私達を父の方へ導き、私たちを聖化するのは、イエスご自身の使命です。 私たちの手にキリストの体を受ける時、私たちは本当に、キリストに触れます。 しかし残念な事にそれは見えません。 というのは、私たちの受け入れが完全ではなく、私たちにキリストを見たいと言う望みがないからです。 イエスはそこに 私たちの前に 私たちの回りに 私たちの間に 私たちのうちに 御父の栄光のなかに、そして聖霊との交わりの中に私たちと共に おられます。 見ないで信じる者は幸いです、 彼らは自分たちが信じた方を見る権利を得ました、。 彼らの信仰によって得たのです! イエスを見たいと言うわたしたちの望みはどうでしょうか?
ちょっと頭のおかしな人は、どこででもキリストを見ています。 が、残念な事に 他の人はキリストに出合いたいと望みません。 私達は出会う人を通して、キリストを見ることができると言う事を知っています。 しかし私は あなた達が本当にキリストに出会いたいと望まれるか、どうかを 本当に そこで 見たいですか?と伺いたいです。 もし、イエスが私達のうちに生きておられるなら、私達のうちで働かれるキリストを見ることが出来るでしょう? もし私たちが イエスの眼差しで私達の生き方を眺めるなら、私たちが見つけるものを見て 幸せでしょうか? または、自分の行いを恥じるでしょうか? この質問に対する私達の答えとして どうしても エマウスの弟子たちのように言はなければならないでしょう。 「主よ、私達と一緒に留まってください。 時が経てば経つほど、私達はあなたを知らないと反省するようになりました。 あなたに対しても、他の人に対しても、あまり立派な事はできませんが・・・もっと残念な事に、み言葉で私達の信仰を充分に養う事もあまりうまくいきません・・・ あゝ、主よ、もう陽が傾いています。 愛の完成に私達を導く為に 聖霊を私達の上に大急ぎで注いでください」 アーメン。
「一つの考え; エマオの弟子はイエスを自分のそばに留めようとするが、イエスは去っていく。これは時の流れである。 この時に永遠が入ってくる。という事を考えてはどうだろうか?
パンを裂く時キリストが消える。今から時の流れではなく永遠の中に入る、と理解できないだろうか?」
復活節第4主日 2008年4月13日
使徒言行録2章14、36−41節 1ペトロの手紙2章20−25節 ヨハネ10章1−10節
ヨハネの言う所によれば、人々は何も分からなかったそうです。 「イエスはこの例えを人々に話されたが、彼らはその話が何のことか分からなかった」(ヨハネ10章6節) 実際この例えを理解するには、先ずイエスが「人の口からは、心にあふれていることが出て来るのである」(マタイ12章34節)と言われた事を思い出さなければなりません。 間違いなく、この例え話のなかでイエスが言われたことは、愛についての言葉で、その言葉で彼は私達を命へ導きたかったのです。 イエスは私達を救われる神の愛のみ言葉です!
良い牧者の日曜日に、教会は司祭や修道者の召命の為に祈るように求めます。 教会はまた私達一人ひとりが、自分の歩みについて、自分にだけ求められている道について、熟考するように求めます。 私達は何処へ行くのでしょうか? 私達がついていくのは誰でしょうか?
私達がついて行くのを受け入れたこのイエスとは誰でしょうか? 本当に彼を知る事が出来るでしょうか? はい、イエスが次のように肯定されるから出来ます。 それは「私は自分の羊を個人的に知っており、羊も私を知っている」(ヨハネ10章14節)という言葉です。 そしてイエスは「盗人であり殺害者である」と呼ばれる者達の反対です。 この者達は人間と人の良心の支配を主張します。 私達の時代にはこれらの偽牧者がたくさんいました。 レ−ニン、スターリン、ヒトラー、ムッソリーニ、フランコ、毛(マオ)、ホーチミン、ポルポトなどです。 彼らは自分のイデオロギーの名によって、群集、国家、民族、社会階層を支配しようと望みました。 結局。彼らは人々を何時も、死へ、絶滅へと導きました。
さらにまた、群集をひきつけ、増えていく多くの宗派があります。 ある宗派は「民の神殿」で、グイヤナにおいて923人の人がイエス・キリストの再来と自称していた一人の人に従がって死にました。 しかしながらイエスは「注意しなさい。 誰にでもついて行かない様に、充分な批判精神を持ちなさい」と、この危険を忠告しました。 イエスは良い牧者はどんな人かという基準を、参考として与えています。 宗派の指導者や独裁者とは反対に、イエスは自由への道を開きます。 私達が理解するようにと、イエスが使われたものは、門のイメージで、これは自由のイメージです。 門は人が行ったり来たり、入ったり出たりするためにずっと開いています。 私達は閉じ込められていません。 開いた門は、行ったり来たりする場所、選び、自由、決心の場所で、キリストはここから私達を、命と永遠の救いの道へ導きます。
良い牧者の例え話は、愛の物語です。 愛は真実の知識へ導きます。 イエスを知る為に彼を愛さなければなりません。 そうする最上の方法は、多分サンテグジュベリーの忠告に従がう事です。 それは「愛するとは、お互いを見つめることではなく、同じ方向を一緒に眺める事です」と言う言葉が表わしています。 これは実に、イエスと羊たちの愛です。 イエスは、彼と同じ方向を見るように私達に求めます。 これこそ私達が自由になることです。 イエスはすべての人を彼が見るように見ること、私達の兄弟として全く単純に人々を見るように求めています。 キリストが神と出会うように、私達の父として神に出会うようにキリストは私達に提案します。 今日、キリストは私達に「私は命にむかって導く門である」と言われます。 門といえば、それは神や他の人に向かう開きで、イエスが私達を導こうと望まれるのはここです。 羊小屋の門と同じように、私達の心も大きく開きましょう。 私達が出会う人達の自由を守る為です。
イエスは複雑な迷路へ私達を導きません。 迷路ではあちらこちらで袋小路にぶつかります。 そしてたった一つの出口を見つけられません。 今日イエスは私達に「私は門です」と言われますが、それは命に向かって導くもので、彼は私達に喜びと信頼に向かって開いている出口を直ぐに示そうとされます。 教会とマリアが何時も大きく開かれた門を私達が通るよう手伝ってくださいますように! それは私達をもっと神に近づけ、私達の兄弟に近づけるためです。 この召命の日曜日にあたって、私達の祈りがキリストの向かって捧げられ、良い、聖である牧者がキリストの教会に与えられますように!この牧者の特徴は神への奉仕と兄弟たちへの奉仕に心を砕くことです。 アーメン。
復活節第5主日 2008年4月20日
使徒言行録6章1−7節 1ペトロの手紙2章4−9節 ヨハネ14章21−26節
今日の福音は使徒たちと共にされたイエスの最後の食事について語っています。 マルコはこの話を10節で書き、マタイは11節で、ルカは26節で、ヨハネは156節で書き表わしています。 ヨハネは4章にわたる別れの言葉をイエスの口を通して伝えます。 今日の福音は差し迫った勧告で始まるこの言葉の始めを伝えています。
「心を騒がせるな。」 当たり前です。 心配事は一杯あります! 食事の真っ最中に、急にイエスは呆然としているご自分の使徒たちの足を洗い始めます。 そして「お互いに同じようにするように」と彼らに命令されます。 それからひどく心を悩ませ、震えて、イエスは差し迫ったご自分の死と、ユダの裏切りと、ペトロの否認を告げられます。 使徒たちはショック状態に落ち込みます。 彼らはイエスのうちに、解放者である救い主を見ていましたが、すべては消えてしまいました。 彼らの恐れの薬は信仰です。 「神を信じなさい。私をも信じなさい」と。 信じるという動詞はこの章で8回反復して繰り返されています。 何故なら信仰は考えや感情ではなく行ないだからです。 あらゆる恐れを超えて信じること、これは今日もなお、教会にとっても、私達一人ひとりにとっても、意味があります。 私達は主の約束に基づく希望の保持者でなければなりません。 「恐れるな。 戻って来て、あなた方を私のもとに迎える。 こうして、私のいる所に、あなたがたもいることになる。 私が何処へ行くのか、その道をあなた方は知っている。」といわれます。
その夜、トマスは使徒たち皆の苦悩をイエスに伝えます。 「主よ、あなたが何処へ行かれるか、私達は知りません。 どうしてその道を知る事ができるでしょう?」という問いに対して、イエスは「私は道であり、真理であり、命である」と答えられます。 彼はご自分が何処へ行かれるか本当にご存知でしたし、父についてずっと話しておられます。 私たちはイエスによって私達の人生の最終目的である御父に向かって進んで行きます。 父のほうへ私たちを連れて行く通路は、死んで、復活し、永遠に生きておられるイエスです。 御父は、愛のうちに私たちに望みをかけ、私たちを受け入れようと両腕を広げて待っておられる方です。 イエスにおいて、神は私達のためにその御心の中に永遠の場所を本当に準備しておられます。 私たちの人生には意味があります。 「心を騒がせるな。 私はあなた方のために場所を用意しに行く。 私はあなた方を連れて行くために戻って来る。 こうして私のいる所に、あなたがたもいることになる。」と主は言われます。 イエスは人びとが何処へ行くか分からなくて、迷ってしまう小さい道ではありません。 それは確かな道で、イエスの父であり、私達の父である方の家へ連れて行く近道です。
御父を知る事は、未来の為の約束ではなく、今のための確実な事実です。 「御父については、今からあなたがたは父を知るだろう」とイエスはフィリップに言われます。 「私を見たものは父を見たのだ。」といわれ、私達は皆、この世ではあまりにもしばしば無視している父なる神にいつか必ず出会い、 もっと早く知らなかった事を非常に残念だと思うだろう、といわれます。 なぜなら、信仰は未来を現在にするからです。 天国は、人生の日々の終わりの避難の場所ではありません。 天の国は現在の困難を克服するように私たちを助けるための、単なる幸福の約束ではありません。 イエスの業を行なう人、彼の赦しと愛の言葉をそっくりそのまま伝え、イエスの受け入れと慰めの行いを実現する人すべてにとって、天の国はこの地上にいる時から始まっています。 天の国は神のご計画を実現する為に、自分自身に死のうと望む人に、既に与えられています。 そしてこのご計画は世の救いです。 私たちの人間的な計画は、すべてはかないものだと私達は知っています。 それらは皆、永遠の幸福への私たちの渇きを満たす事は不可能ですから。
キリストは御父を見ます。 しかし私達もまたこの父の子ではありませんか? 理論的に考えれば、私達はイエスのように、「私達を見るものは、父を見る」と言う事が出来るはずではありませんか? もし私達の人生の目的が、いつか御父の家にたどり着く事であるなら、出来る限り、私達はこの父の息子である態度を示さなければならないし、今から父のイメージを表わさなければなりません。 私達を眺める人が、私達の内に御父を見ることが出来ますように! もしキリストが私達の内に生き、私達が彼と共に生きるなら、本当に「私達の内に留まる御父は、私を通して、彼ご自身の業を実現される」という事が出来ます。 確かに ペトロはこの事を自分の手紙の中で、「あなた方は王の系統を引く祭司、聖なる国民、神のものとなった民です。 それはあなた方を暗闇の中から驚くべき光の中へと招き入れて下さった方の力ある業を、あなた方が広く伝える為なのです」と書いて私達に伝えようと望みました。 これは、呆然としている使徒たちにイエスが宣言された事を、ペトロがもう一度私達に言うやり方です。「私を信じる者は、私が行なう業を行い、また、もっと大きな業を行なうようになる。 私が父のもとへ行くからである。」と。 アーメン。
復活節第6主日 2011年 5月 29日A年
使徒言行録8,5-8、14-17 1ペトロ3,15-18 ヨハネに14,15-21
十字架までイエズスを導いた憎しみと暴力は、キリストが死んでも終わりませんでした。 寧ろ、ヨハネとペトロに対して続きました。 そして、ステファノの石殺しに始まり、初代教会に対してこの憎しみと暴力が拡大しました。それが切っ掛けとなってエルサレムのキリスト者があちこちに逃げた。 近いサマリアや異邦人の国に散らされていきます。 ステファノの仲間であるフィリポはサマリアへ行ってキリストを宣言し、たくさんの人々の回心を受けることになりました。 このように最初の迫害がイスラエル以外のところで、福音を告げ知らせる助けとなりました。 迫害されたキリスト者にペトロは第一の手紙を通してフィリポに倣ってくださいと言っている。 つまり、逃げる。 しかしキリストから逃げないで、他のところで信仰を伝えてください。 「抱いている希望について、証しを要求する人々には、いつでも弁明できるように」心構えをしてくださいと、ペトロが願っています。 正しい生き方に対して罵られ、いくら悪口を言われても、言わなければならないことは宣言する。 ご存知のようにキリスト者に対する迫害が世界中で今も続いているのです。 中国・ベトナム・北朝鮮・インド・アフリカなどの国々です。
イエズスは「弟子は師にまさらない」(マタ10:24)と自分の友だちに、忠告しました。 自分が迫害されたように彼らにも同じことが起きると、晩餐の時、イエズスは彼らに最後の忠告(アドバイス)を与えます。 彼は弟子たちに、侮辱やののしり、妬みや憎しみなど迫害を恐れてはいけないと言いました。 なぜなら、悪のあらゆる種類の攻撃から、彼らを守る弁護者、つまり聖霊を与えるからです。 この聖霊が真理をハッキリ示します。 特に何よりも先ず信じる人々がキリストを見ること。 自分たちの内に、自分たちと共に、自分たちの為に生きているキリストを感じさせます。 イエズスはこの不思議な驚くべき言葉を私たちに残しておられます。 「かの日には、わたしが父の内におり、あなたがたがわたしの内におり、わたしもあなたがたの内にいることが、あなたがたに分かる。」(ヨハ14:20)と。 神とのこの親密さが、キリストの愛のため、または信仰のために迫害され侮辱されている全ての人に、神ご自身の力と揺るぎない確信を与えます。 キリストを愛しているからキリストの愛が私に留まる。 勿論、この親密さを生きるためには、謙遜に神の手に委ねられた状態でなければなりません。
キリスト者は、恐れの霊ではなくて神の子とする力の霊を受けている、とパウロが思い起こさせます(ロマ8:15)。 パウロは特に私たちのために祈りました。 深い喜びを持ってこの祈りを心に留めましょう。 この祈りは「どうか、御父が、その豊かな栄光に従い、その霊により、力をもってあなたがたの内なる人を強めて、信仰によってあなたがたの心の内にキリストを住まわせ、あなたがたを愛に根ざし、愛にしっかりと立つ者としてくださるように。 人の知識をはるかに超えるこの愛を知るようになり、そしてついには、神の満ちあふれる豊かさのすべてにあずかり、それによって満たされるように。」(エフソ3:16-19)
聖霊の最初の役割は、キリストを見せ、キリストを知らせることです。 キリストがまた、不思議なことを言います。 「しばらくすると、あなたがたはわたしを見る。 わたしが生きているので、あなたがたも生きることになる。」(ヨハ14:19)と。 日本語の訳はこのようになっていますが、ギリシャ語は「わたしが生きているのをあなたが見る。 そうなった時、 あなたも生きる者となる」と書いてある。 少し違います。 そして、イエズスは次のことを加えます。 「私を愛するなら、私の言葉を守るでしょう。」 見ること、知ること、信じることでは足りないのです。 死ぬ時まで、キリストが証しした従順は、キリストの弟子たちの道のりでなければなりません。 イエズスの名によって私たちは洗礼を受けた時に、忠実さのうちに彼と復活するために、キリストと共に死のうちに沈むことを承諾しました。 キリストが生きていることを見る。 そして自分も生きている者となる。
キリストの教え全体が、祈る必要性について語っています。 祈りは聖霊の最初の賜物です。 最初の朗読がそれを教えています。 「いつも祈りなさい」とパウロも同じことを繰り返している。 ペトロとヨハネは、サマリアの人のために祈っていました。 フィリポが福音を宣べ伝え、洗礼を受けた信者がまだ聖霊を受けていなかったので、彼らが聖霊を受けるためでした。 聖霊はいつも、既にそれを受けた人の祈りによって他の人に与えられます。 イエズスが弟子たちのために祈ったように、弟子たちと司祭たちは洗礼志願者のために祈り、司教たちは司祭になる人のために祈っています。 私たちはみんな聖霊の神殿となったから、私たちの共同体が神の聖性と力に満たされるように祈っている。 私たちは聖霊の交わりのなかで生きていかなければならないのです。 「神は求める人に聖霊を必ず与える」(ルカ11:13)とキリストが約束したから、私たちは自分たちを囲んでいる人たちとこの世と世界に広がっている教会の為に、絶えず聖霊の賜物を願いましょう。
聖霊について語るのは難しい。 イエズスでさえ人間の言葉でこの神秘を説明するには至難の業でした。 しかし聖霊に向かって祈るのは簡単です。 自分たちの生き方をどのように変えるか、世界をどのようにすれば美しくなるのか、そして聖霊が誰であるかを悟ることは聖霊が教える。 キリスト者は、いつも聖霊で満たされた人とならなければならない、これは、イエズス自身の望みであり、私たちの使命でもあります。 全てを新たにする神に、聖霊の光と力のうちに私たちが絶えず新たにされることを願いましょう。 「私たちの命はキリストと共に神の内に隠されている」(コロサイ3:3)から、ますます聖霊と親しい関係を結びましょう。 親密さのうちに聖霊は私たちを聖化し、徐々に愛の完成まで私たちを導きます。 神に近い者とされた私たちのよろこびを神に捧げよう。 私たちの主イエス・キリストの名によって。 アーメン
主の昇天の祭日 2008年5月4日
使徒言行録1,1-11 エフェソ1,17-23 マタイ28,16-20
マルコはその福音の中で二つの矛盾したことを語っている。(マコ16章19,20節)「イエスは天にあげられ、神の右の座に着かれた。」 これは主が決定的に弟子たちから離れて、行ってしまわれた事である。 しかしマルコはすぐに「主は彼らと共にはたらかれた」とも言っている。これはイエスはずっと弟子たちと一緒にいて、協力するために残られたことである。
実際、このことは矛盾ではない。イエスは誰にも見えない。しかし彼の現存は全員に及ぶものとなる。これは神秘的な現存であり、信仰と愛を通して認められ、イエスが弟子たちに約束されたように、実在的、活動的存在である。 マタイは28章20節で「私は世の終わりまであなた方と共にいる」といっている。 昇天に関わる中世の色々な絵は、一般的に雲の中に消えていくイエスの足を示し、また地面に残っている彼の足跡を示している。この単純な表現は非常に意味深い。 イエスは歩いていたところから出発した、しかし彼は足跡を残す。 これは昇天の神秘である。 私たちはこの足跡を彼の通過の印として見るべきである。これらの足跡は、道であり真理であり命であるイエスの足跡に、私たちの足を乗せ、イエスの足跡をたどるように私たちを招いている。(ヨ14章6節)
イエスの足跡は、永遠の愛、皆にためにする永遠のとりなしの証明であり、区別無く皆を歓迎する確証であり、限りない赦しのしるしであり、謙遜で友愛に満ちた奉仕の証明である。 イエスはパレスティナの路上に足跡を残そうと望まれただけではなく、彼の話を聞く人々の心に、まず、彼のしるしをつけたいと望まれたのである。 イエスの言葉、振る舞い、行いを吹き込まれた私たちは、どのようにして課といえば、 2000年以来、この愛のメッセージの証人であるキリスト者は、まずこのしるしを受け、それからそれを吹き込まれ、最後に私たちにそれを伝えたのである。
では、この地上に残され、私たちの心に記し付けられた、これらのイエスの足sとで私たちはなにが出来るだろうか ? 足跡を消すのは非常に簡単である。 キリスト教の始まりから、試みられた迫害は数え切れなく、今日もまだ、愛のメッセージを宣言するキリスト信者は拭い去られ、黙るように苦しめられている。 これらの信徒は「殉教者」とよばれている 「記し付ける」(プリント)と言う意味を変質させることは出来る。 いくらかの人たちはイエスのメッセージを軽蔑し、意味を変えようとする。(例えば、近代主義を口実にし、時代は変ったとか、社会は進化しているとか) ある人たちはキリストや福音書を馬鹿にする。 他の人は事実をごまかす。 本や映像やインターネットなどを通して、キリスト教の歴史に対する新しい解釈でそれらを歪曲する。これらの人々は、キリストのメッセージの中心、彼の父である神の愛、彼の兄弟である人の愛が何であるかを引き下げる。 彼らは「神の真実」を破壊し、彼ら自身の虚偽の真実を置き換える。
私たち一人ひとりは、地上の明かりや参照にすることなどでてらして小道を選ぶ必要がある。 私たちにとってキリストはこの道の光である。 多くの人は人生を突き進んでいく。しかし自分がどこから来たか、どこへ行くかを知らない。しかし私たちは私たちの為にイエアウが開いてくださった道を、彼に従って歩きながら、どこへ行くかを知っている。印、キリストの足跡はどこででも彼が宣言された真実である。それは愛によって与えられた命である。 それはまた私たちの心に注がれる聖霊であり、私たちのうち誰一人として、他の人にそれを与えることは出来ない。イエスだけがこの偉大な愛の行いを完全に実現できるのである。 主の昇天の日に、天を仰ぐ必要はない。聖霊の光でイエスが私たちの後に残された愛のしるしを全部見つけるために世界を見せていただこう。それらを消したり、壊したり、軽視したりしないように注意しよう。反対に、私たちが注意深く一つ一つのしるしを見つけることが出来るように、観想しよう。それから忠実に、それらについて行かせて欲しい。そうして、イエスと共に、イエスのうちに、私たち自身、愛の道、真理の道、命の道になるように・・・アーメン。
聖霊降臨の祭日 2008年5月11日
使徒言行録2,1-11 1コリント12,3-7;12-13 ヨハネ20,19-23
聖霊の賜物についてのこの二つの話(ルカとヨハネ)がどれほど違っているかに気付かれましたか? 細かい点に至るまで同じではありません。 まずこの出来事についての時が違っています。 ルカによれば、復活の後50日目で、ユダヤの大きな祭りの時でした。 ヨハネによると、復活の夜の出来事です。 ルカは非常に細かい所まで、つまり共に祈っていた事、雷の音、風、炎などを述べています。 ヨハネはこの出来事を内密のことのように、弟子たちはユダヤ人を恐れて、自分たちのいる場所の どの戸にも鍵を掛けて閉じこもっていたと、打ち明けています。 結局、ヨハネによると、聖霊の賜物は、集まっている弟子たちだけに重点を置いたもののようです。 しかしながら、ルカにおいては、多くの人々が聖霊の賜物を受けました。
ではどちらが本当でしょうか? ルカでしょうか、ヨハネでしょうか? ルカもヨハネも二人とも、聖霊の息吹に照らされて自分の話を書きました。 聖書においては、時とか、場所とかの細かい点で、本当かどうかを見分けるわけではありません。 それが小さいグループであろうと、大勢の群集であろうと、イエスを信じる人々に、この聖霊の賜物が与えられたというメッセージが本当の事なのです。 この話のなかで、ルカは天から来た音について話しています。 それは激しい風のようであったと・・・ この音のことは2回言及されています。 1回目は、集まっている弟子たちについてで、聖霊の働きによって、直ぐに色々な国の言葉で自分の考えを話し始めました。
しかし、ルカは更にこの音について記述していますが、それは群集に関するもので、言われていること全てを、自分の母国の言葉で理解したと書いています。 このようにルカはヨハネよりも明白に、良いメッセージ(福音)を宣言する使徒たちにと同様に、それを聞く群集にも、皆に聖霊の賜物が与えられた事を強調しました。 使徒たちに与えられた聖霊は、彼らが自分たちの信仰を証するためであり、人間としての彼らの言葉が神のみ言葉と緊密に結びつくものである事を明白に示しています。 この同じ目的で、ヨハネとルカが、彼らの福音のメッセージを書いて、未来の世代の為に忠実に伝えるようにと、聖霊が与えられました。 しかしルカの話は、聖霊が信じる人々にだけではなく、神の言葉を聴き始めた人にも与えられた事を、ヨハネよりもよく説明しています。 聖霊は、神ご自身が私たちに啓示したいと望まれることに従って 真理のうちに、み言葉を聴くように、私達に与えられました。
ヨハネは復活したキリストと聖霊は 私達の錠をこじ開けようとはなさらないと説明します。 錠で閉められたドアを壊しません。 ただ単に私達が望む時にだけ、平和を与えようと来られます。これは非常に深い平和、イエスの神性の現存から来る平和です。 ヨハネは使徒たちがイエスを見て幸せだったとは言いません。 しかし、復活して、栄光の中におられる主、全く違った主を見て、喜びに満ち溢れました。 イエスの現存する全く新しい世界は、彼らを慰め、強め、彼らに聖霊の息吹を与えました。 この時から、使徒たちは自分たちの人生の目的を見つけます。 この時から、復活したイエスを信じる人々は、神の命を分かち合うことが出来ます。 ヨハネは特に、私達のうちにあるこの神の命を証し、その印は信じるものの心を満たす喜びであると述べています。
以上の様に、ヨハネとルカの記述は矛盾するのではなく、反対に聖霊の意味をよく理解する助けになります。 キリスト者であろうとなかろうと、聖霊の息吹は私達に触れ、問いかけ、それを聞き、証しするように勧めます。 私達を超えるみ言葉を聴き、証しするとは、それが神のみ言葉であり、肉をとられた永遠の命のみ言葉だからです。 きょう、私たちがここに集まっているのは、私達が一人ひとりが 神のみ言葉を母国語で聞く為に 聖霊が信仰を与えられたからです。 絶えず、神のみ言葉を聴き続け、燃える心で、キリストの証し人になりましょう。 しかしそのために、先ず、私達は、「知識と賢明の霊」を懇願しなければなりません。 それが「神の平和」を私達に与えるからです。 聖霊は 私たちが完全な喜びのうちに証言し、証人となるように、神が望まれることに対して、敏感にならせます。 聖霊降臨の祝日が私達皆にとって、私達のうちにある神の命の祝い、キリストの平和の祝い、聖霊の喜びの祝いでありますように。 アーメン
キリストの聖体の祭日 2008年5月25日
申命記8,2-3;14-16 1コリント10,16-17 ヨハネ6,51-58
インドの詩人タゴールは次の伝説を語りました。 一人の貧しい人が戸口から戸口へと歩いて、食べ物を願っていました。 そして、人々は彼にほんの少しばかりのお米をあげていました。 しかし、一日の終わりになっても、彼の小さい布の袋には、ほんの少しのお米しか入っていませんでした。 その日のことです。 彼が一人のとてもお金持ちの人を見た時、心臓はドキドキと動悸を打ち始めました。 「あゝ、もし彼が金貨を一枚呉れるなら・・・」と思ったからです。 この人は近づいてくる乞食を見て、「私にあなたのお米を少し下さい」と言いました。 乞食は面食らって、しり込みしながら、彼の小袋から一粒の米粒を取り出し、それを彼に与えました。 お金持ちの人は、何も言わずにそれを受け取り、直ぐに行ってしまいました。 その夜、乞食は集まったお米の中に、ひと粒の金を見つけて、とても驚きました。 そして「あゝ、もし、彼に私の持っているお米全部を上げることに同意していたら・・・」と叫びました。
同様に、ミサのとき、主は、私たちのお米、つまり日ごとの糧、日常生活に必要なもの全てを、主に与えるように 望まれます。 これは司祭が捧げるホスチア(これは聖変化で聖体になります)で表わされています。 しかし、私たちはミサに参加する時、本当に主に何かを捧げているでしょうか? 私たちの全生涯を主に委ねる事を考えているでしょうか? というのは、信仰は本当にそれを求めているからです。 つまり、全てを得るために全てを捨てることを、自分の命を救うために命を失うことを、復活するために死ぬことを考えているでしょうか? このことが、命のパンを信じる者の命のことです!
神は、私たちが神にさしあげるものすべてを、私たちの希望をはるかに超えて、変化させようとお望みになります。 奉献のとき、私たちの捧げたものは、「命のパン」となります。 私たちが生活から捧げたものを 神は聖体拝領のとき、私達に返してくださいます。 しかしそれはキリストの真の現存によって神格化されたものです。 このようにミサとは先ず、二つの真の現存の出会いです。 キリストの本当の存在、そこには如何なる疑いも入る余地がありません。 というのは、聖霊の力をもってキリストはそこにおられるからです。 そしてもう一つは、私たちの実際の存在です。 度々それは不確かな、仮定的なものですが。(というのは私たちの体はそこにあっても、精神は他にいることが多いからです。) 最も大切なことは、ミサ後に出会う人々のために、キリストの真の現存との一致、聖体拝領が、私たちをキリストの本当の現存とならせていることです。 というのは、聖体の拝領によって、イエスが完全に私たちを彼に変化させているからです。キリストを受けることで、私たちの体に、キリストの在り方、話し方、行ない方を戴きます。
そこで私たちのうちに生きるのは本当にイエスで、私達の家族の中で、生活の真只中で、仕事の中で、私たちを通して、外に表れるのはそのイエスです。 聖体を拝領するということは、イエスのように、イエスと共に、イエスによって、イエスのうちに具体的に愛することを、決意することです。 もし私たちがこれを実現しようと望まないなら、私たちの拝領は空しく、実りのないものになります。 またイエスは、「生きておられる父が、私をお遣わしになり、また私が父によって生きるように、私を食べる者も私によって生きる。」(ヨ6章57節)と私たちに予告されました。 聖体を受け入れる事は、使命を受ける事です。 というのは、父を啓示する為に、この世に遣わされた「子」となることだからです。
そうです。 もし私達が神の子として、神の命を生きようと望むなら、キリストの体と血との一致のうちに、そこから力を汲み取り、私自身であるもの全てを委ねなければなりません。 聖体は私達の弱さを補う生きた必需品です。 聖体は 私達一人ひとりを変化させ、同じ神秘に一致する信徒の共同体とする本当の食べ物です。 そうです。 「信仰の神秘は偉大です!」 今日の聖体の祭日に、尊敬と感謝を持って、その事を観想しましょう。 そして私たちの知恵を明晰に照らしてくださるように神に願いましょう。それは聖体の秘蹟によって、キリストが本当に私たちのうちに住みに来られ、私たちが彼のうちにいることを、理解するためです。 私達を超える神秘的で、内密なこの一致、キリストの御体と御血のこの豊かさ、これが私たちに神に対する真の飢え、乾きを与えます。 最後に、マリアの祈りがいつも命のパンを望むように助けてくださいますように! イエスが私たちを生かし、世の救いのための永遠の命のパンであることを、宣言する信仰を聖霊が与えてくださいますように! アーメン。
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